
それぞれの人の中に天才がいる

プッティー
おまえ、「マトリョーシカ」って知ってるか?
ま、マトリョーシカ?あの、オモチャの?

てつ

プッティー
せや。なんべん開けても同じ形の人形が入ってる、あれや。ええか、そもそも理論とは「最小で、最大を説明するため」にある。つまり、できるだけシンプルなもので、たくさんのものが説明できること。これが、優れた理論であることの条件や。
反対に言うと、例外はどうしても生まれる・・・・と。

てつ

プッティー
せや。だから、この「天才理論」もハッキリ言うて例外はある。せやけど、その理論の価値は、実は、おまえ自身の中にも「天才がおる」っちゅうことを気づかせてくれることなんや。
僕の中にも天才がいる・・・・?

てつ

プッティー
せやで。おまえの中にも天才はおる。せやけど同時に、「その天才を殺してしまう秀才」も「凡人」も、自分の中に飼っとる。言い換えたら「なぜ、創造的な考えができないのだろう?」と悩むほとんどの人が、若い頃の教育の過程で、自分の中の天才を殺してしまったからなんや。今回、おまえは、そのリミッターを外すことに成功した。
僕の中のリミッターを外す・・・・それは「秀才の言葉」を忘れることだったと。

てつ

プッティー
せや。人の才能っちゅうんは、ゼロか100か、やない。たとえば、創造性:再現性:共感性=10:0:0っちゅうもんやない。それぞれ、少しずつは持っていることがほとんどや。ほんでその優劣によって「天才」「秀才」「凡人」のカテゴリーが決まる。

プッティー
たとえば・・・・
【病める天才】
創造性:再現性:共感性=5:1:4
【最強の実行者】
創造性:再現性:共感性=1:6:3
【エリートスーパーマン】
創造性:再現性:共感性=4:5:1

プッティー
つまり、おまえの中にも創造性は存在してるんや。
なるほど・・・・。

てつ

プッティー
せやけどなんで、世の中には「天才」と呼ばれる人が圧倒的に少ないのか。それは最初に言うたように「説明能力の差」によって、天才の芽を殺してもうてるからや。おまえ、こんなことないか?

プッティー
夜中に、めちゃくちゃおもろいこと思いついて、メモった。明日すぐに発表してみようと思う。ワクワクする。せやけど、翌朝見直してみたら急に「全然筋が悪そう」に見える。結果、昨日の自分がなんかアホみたいで恥ずかしく思い、メモを削除する。
近い経験ならあります。仕事でやってみたいことを思いついても、すぐに「でもこう言われたらどうしよう」「でも、失敗するかも」とか考えて、結果、何もやらないことが。

てつ

プッティー
せやろ。実際、こんときのプロセスゆうんは、頭の中で、天才→秀才→凡人の三者が、順番にポコポコ出てきてるんや。おまえの中におる「天才」が思いついたアイデアを、社会的な基準やロジックで「良いか悪いか」を判断するのが、秀才や。ほんで最後に「恥ずかしい」とか「まわりからどう思われるか」と感情で判断する。結果、やっぱやめとこ、と凡人が出てきてまう。

プッティー
つまりな、天才とは「自分にあった武器」を手にした上で「ストッパー」を外した人間のことなんや。
でも、それでも僕はやっぱり、自分には創造性があるとは思えないです。昨日のはマグレというか、なんというか。

てつ

プッティー
アホたれやな、おまえは。これまでの話で、天才には「ストッパーとなる存在」がおるゆうのは理解できたやろ。なんで、世の中の天才には「ストッパーとなる存在」がおることには同意できんのに、自分の中の天才には「ストッパーとなる存在」がおることを理解でけへんねや?そこに理屈なんかないやろ?
理屈・・・・。

てつ

プッティー
そんなもん、特にないやろ!?
これは・・・・育っていく過程で、少しずつ教え込まれたからでしょうか。「自分には敵わないような天才」が会社にいる、と。

てつ

プッティー
おまえ、ホンマわかってへんな。それはそれ、これはこれで、まったく別の話や。
別の話?

てつ

プッティー
せや。つまりな、たしかに世の中には天才中の天才がおる。彼らとおまえが同じ土俵で戦ったら勝てるわけない。それは事実や。せやけどな、それと「おまえの中にも少なからず、天才がおる」。これはまったく別の話や。ほんで人は「才能があるか、ないか」だけにフォーカスしようとする。けどな、才能を活かされへんのは、才能があるかないかより前に「ストッパーとなる存在」を取り除くことのほうがはるかに大事なんや。これが「本当の自分になる」ための方法論なんや。
才能を信じ、活かすことの最大のメリットは、過去最高の自分に出会うこと。
次回
【3ー9】プッティーとの別れ